ブーランジェ・稲垣信也のパン物語 その参

19/02/07

パリ在住のブーランジェ・稲垣信也さんのパンを巡る物語を引き続き紹介する。(これまでの記事はこちら→その壱その弐

羊農家や蜂蜜農家、伝説の農家パン屋などフランス各地を訪れながらパン焼きを学んだ信也さん。時にはフランスを飛び出すこともあったそう。≪9軒目≫は、ベルギーのナミュール近郊にあるパン屋「モネピ」のデュックさんの元で修行した。これまでの修行先と違い、デュックさんは農夫でなく、マイスター(※1)の資格を持つパン職人だ。信也さんの旅の開始地点「バルバリー農園」内の農家パン屋・セルジュさんがつくった薪窯も「モネピ」にあり、窯づくりや小麦に関する興味関心も高い熱心なパン職人さんだったという。

↑デュックさんのもとでの様子

 

その後、再びアルザスへ戻り、ベルホールの近くの山の中に住む、ベネディクトさんのアトリエでアルザス料理やクグロフを教わり≪10軒目≫、ヴォージュ地方では、豚を放し飼いで飼育する農家のパスカルさんのもとで、シャルキュトリをつくりパンを焼いた≪11軒目≫。ここでの生活中、風邪をひいてしまった信也さんはパスカルさんに連れられ、ロレーヌ地方の野菜農家マリオンさんの元を訪ねた。ビオのハーブと野菜に精通した彼女は、風邪に良く効くというハーブを調合してくれたそう。「農園までの細い道に鮮やかなミラベル(※2)がたわわに実った光景が本当に美しくて印象的でした」と、信也さん。当時出会った人々を懐かしむ信也さんのいきいきとした話ぶりに、私もその光景を想像せずにはいられない。フランス人が愛するこの時期だけの黄色い果実・ミラベルの収穫とコンポートづくりを手伝ったという。≪12軒目≫

↑上、中央左:パスカルさん/中央右、下:マリオンさん

 


その後信也さんは、旅の始まりだったノルマンディー地方に戻り、クリスティーヌさんの元へ≪13軒目≫。彼女にルヴァンでつくるケーキを教わった他、同地方で野菜農家や鴨(フォアグラ農家)も訪れた。
≪14軒目≫は、ロワール地方・マイエンヌにあるオディールさんとマリエンヌさんの営む穀物農家。人間の営みと自然の調和を目指す2人は、古い農家屋を修復し動物と共に暮らしていた。農家周りの最中、ノルマンディーで出会った友人の紹介で信也さんはパリを訪れた。この時「ダニエル・デュピュイ」というブーランジェリー≪15軒目≫で研修し、田舎で焼いてきたパンとは全く違うバゲットやブリオッシュといった、パリのパンづくりを初めて体験することに。その後再び、アルザス地方やノルマンディー地方、ベルギーなど各地を回る旅を続けた。


月日は流れ2003年。信也さんは友人の紹介で「ル・グルニエ・ア・パン」(※3) ブーローニュ店(パリ郊外)で働き始め、在籍中にディプロム(※4)も取得。2008年にはパリ右岸バゲット・コンクールでも優勝するなど、各地のコンクールで入賞を果たした。その後、パリ市内のクーランクール店勤務になり、同店ではシェフパティシエを務めていたそう!信也さんのパンと言えば武骨な田舎パンのイメージだったので、これには驚いた。「実はガレット・デ・ロワや菓子パンも好きなんです。グルニエ時代には本当に様々な経験をさせてもらいました」と、信也さんは振り返る。2012年からは、店舗の定休日に窯を借りパンを焼き、友人のレストランに卸すなど「shinya pain」個人としての活動も開始。2013年9月、独立開業を目指し、約11年間勤めた同店を退社した。

 

各地を旅してまわり、全身で感じ取ってきたフランスの日常のパンの姿。様々な職人や農家との出会い。農業と食の関係。人間の営みと自然の調和。全ての経験からなる自身の感覚と情熱をもとに、信也さんが思い描く理想のパン屋の開業準備が始まった。

グルニエ退職後まもなく、パリ3区の街づくりプロジェクトのパン担当として信也さんに白羽の矢が立った。パン屋の立ち上げを任された信也さんは、プロジェクトチームの意向で、古代麦栽培の先駆者であるローラン・フィヤスさんのもとで9か月間研修し、古代麦に関する知識と経験を培った。ローラン・フィヤスさんはエンジニアからペイザンブーランジェになった異色の経歴の持ち主で、フランス南部のキュキュニャンにある「レ・メートル・ドゥ・モン・ムーラン」という風車小屋のパン工房でパンと焼き菓子の販売も行っている。ここでの日々を通し、信也さんは「ペイザン・ブーランジェ(農家パン屋)とは何か」を再確認したという。

 

来るべき開業に向け準備をしていた信也さんだが、なんとこのプロジェクトが白紙になってしまう。そんな折、友人の紹介でパリ2区のニル通りに店を構える食料品店「テロワール・ダブニール(※5)」のオーナーの1人であるサミュエルさんと出会い、とんとん拍子に話が進み、2015年12月、「テロワール・ダブニール」の運営チームと信也さんの共同経営で「ブーランジェリー・ デュ・ニル」をオープンした。

同店は、パリの真ん中で“農家のパン”を提案し、麦本来の香りが味わえるカンパーニュのような素朴なパンが主軸。信也さんは、これまでのパンを巡る旅でお世話になった農家さんたちから麦を仕入れ、各地で「今日のパン」から感じ取ったインスピレーションを反映させながらパンを焼いた。旅の中で、土地ごとに異なる「その場所の小麦の味」と「日常のパン」に出会い「テクニックにこだわるパンづくりではなく、つくり手を大事にする農家のようなパンづくりを自分もしたい」という思いが強くなり、信也さんの興味対象がパンづくりから、その素材である小麦へと移ったのは自然なことだった。完成された食べ物や美味しさだけを追い求めがちな現代だが、口に入れるものがどのように作られているのかを知ることは、パンに限らずとても大切なことなのだから。だから信也さんは、フランス国内で栽培されている古代小麦を使い、昔ながらのパンを焼く。ビオの小麦のみを使用したパンの品質の高さとこだわりは瞬く間にパリジャンの間で話題になり、フランスでも忘れられていた古代麦やオーガニックの麦の存在が再び注目を集めた。(今日でもこの流れは続いており、パリ市内でも古代麦やオーガニックの麦を使いパンを焼くお店が増えている。)小麦の生産者を大切にするという、信也さんの理想のパンづくりが形になった瞬間だった。ところが、信也さんの熱い思いとは裏腹に、パンづくりに対する価値観の違いからパートナーたちと溝が深まり、2017年1月10日をもって信也さんは「ブーランジェリー・デュ・ニル」を離れるという決断を下さざるを得なくなった。(現在も同店は継続中)

 

1度は実現した理想とするパン屋づくりだが、現在、信也さんは店舗をもたないパン職人だ。「shinyapain」の屋号で、レストランに卸すパンを焼きながら、各地でパンにまつわるプロジェクトに携わっている。例えば、スペイン・バルセロナの友人のパン屋さんの立ち上げに関わったり、パリの友人である料理人がニューヨークで期間限定のレストランをオープンした際にはパン職人としてパンを焼きにいったり、時には、日本でのイベントに参加したり、と。(2017年夏には東京「アヒルストア」、同年4月には「Eatrip」、2018年4月には「uguisu」と、各所で信也さんのパンと料理とワインを味わう機会があった。)そして2019年、友人のヴァランタンさんが営む店「Fermentation Générale(※6)」で週に3回信也さんはパンを焼き販売している。

 

「Fermentation Généraleでの新しい出会いや展開もとても楽しみです。お世話になった人への恩返しが、ここ、パリで出来たらと思っています。いつかきっと、僕自身のラボも持ちたいですね。」

そうにこやかに話してくれた、ブーランジェ・稲垣信也のパン物語はこれからも続いていく。多くの人たちを魅了しながら。

↑フランス各地を渡り歩いた信也さんの旅。地図でみるとわかりやすい。

 

 

※1 マイスター :Meister(独語)。技術系の高等技能所有者に与えられる資格。職人の親方、名人級の技術者の呼称として用いられる。マイスター制度はドイツが有名だが、オーストリア、ベルギー、スイスにも同様の制度が存在する。

※2 ミラベル :mirabelle(仏語)は、フランス北東部のロレーヌ地域で夏から秋のわずかな期間にかけて収穫される果物。スモモの一種でサクランボを少し大きくしたくらいの大きさ。杏にも似た食感で、酸味がなく、独特の甘さがある。

※3 ル・グルニエ・ア・パン(Le Grenier à Pain) :パリを中心にフランスで20店舗以上を展開するブーランジェリー&パティスリー。日本にも半蔵門と恵比寿に店を構え注目を集めた。

※4 ディプロム(Diplôme)  :「国が認めた「資格」。通常フランスの教育省が認定している認定試験に合格することで取得できる。専門分野でディプロムを取得することは、知識や経験の証明になり、就職活動や昇給に有利。

※5 テロワール・ダブニール(Terroirs d’Avenir) :2008年にAlexandre DrouardとSamuel Nahonによって創設された食料品店。野菜、魚、肉、乳製品など、フランス各地の良質なBIOの食材を扱う。フランス語で「未来の土地」の意。ニル通り(Rue Nil)に、レストラン、ワインバー、お肉屋、魚屋、八百屋を構えるほか、レストランへの卸販売も行う。

※6 Fermentation Générale :自家製パンの他、自然派ワインやお惣菜など主に発酵食品を販売するエピスリー。地下鉄オベルカンフ駅近くのパリ11区。水曜から土曜は店主のヴァランタンさんのパンが店頭に並び、信也さんのパンは、日曜12時~14時、月曜・火曜17時~20時に販売。

 

 

My special thanks to Shinya Inagaki!!