ブーランジェ・稲垣信也のパン物語 その壱

19/01/13

昼下がりのモンマルトルの丘の上。レストラン「Le Grand 8」の窓際のテーブルで、ブーランジェ・稲垣信也さんが焼いたパンををかじる。香ばしいクラストとみずみずしいクラムを噛みしめると穀物の香りと甘みが口に広がる。亜麻仁のぷちっとした食感の余韻を感じながら、きりっと冷えた白ワインを流し込む 。美味しいパンのある食卓のしあわせを噛みしめる。

信也さんは、パリでパンを焼くブーランジェ(パン職人)。パリに住んで20年弱、現地の人々からの信頼も厚い。私が信也さんの存在を知ったのは4年前に見た雑誌の記事だった。その後、日本でパンを頂く機会があったり、共通の友人から話を聞くうちに、私の中で信也さんの存在が大きくなり、長らく気になるパン職人さんの1人だった。媒体を通してではなく「本当の稲垣信也」さんを知りたくて、私はパリにやってきた。目の前にいる信也さんは、とても良い顔で気持ちよく笑う素敵な方で、自分とパンを巡る物語をきかせてくれた。日本でも多くの方に知ってもらえたらと思い、ここに書き記す。

信也さんは愛知県安城市生まれ。大学卒業後のアルバイトがきっかけとなり、パンの世界に飛び込んだ。「自然で素朴なパン」を焼く職人さんというイメージが強い信也さんだが、大手製パン工場や全国チェーンのベーカリーカフェで働いた経験もあると知り驚いた。パン人生の転機となったのは、ルヴァン種(※1)との出会い。職場の先輩からルヴァン種の魅力を聞くうちに興味が沸き、ルヴァン種のパンづくりを学べる理想のパン屋さんを探し始めた。同時に「日本のパンとは何か」を自問していた時期でもあり、日本生まれの自家培養発酵種「楽健寺酵母(※2)」でパンを焼く、山梨県の日本アルプス山脈の麓「鐘の鳴る丘 パン工房 プラテーロ(※3)」の扉を叩くことに。小さなパン小屋で体に優しいパンを焼き、活きた酵母の姿を初めて目の当たりにし「パンは生き物なのだ」と、パンへの興味が増していったという。同店ではオーガニック食品の販売もしており、素朴なパンづくりと自然の中でのシンプルな生活が、「日々の糧」としてのヨーロッパのパンへの憧れに繋がった。

 

フランスの地方には、小麦の栽培から製粉、パンづくりまでを自ら一貫して行う「ペイザン・ブーランジェ(農家パン屋)」 がいる。彼らが焼くパンは実に素朴。薪窯で焼きあげられる大きなパンは形も不揃いで、武骨。「薪窯で焼くごつごつしたパンがかっこよく見えたんです。そのパンが持つ雰囲気に憧れがあったんだと思います」と、信也さんは当時を振り返る。

ペイザン・ブーランジェの焼くパンと暮らしへの興味から、2000年5月、ワーキングホリデーで初めての渡仏。友人の紹介を受け、ノルマンディー地方でエネ一家が営む「バルバリー農園(※4)」に飛び込んだ。農園の一角にあるセルジュ氏(エネ家の長男)のパン工房「シャントゥ・ラ・ヴィ」でパンづくりを学びながら、オーガニック農園で過ごす日々。野菜を育て、豚を飼い、口にするもののほとんどを農園内で賄い、エネ一家と農園の仲間で食卓を囲み暮らした。自然が与えてくれたものを享受し循環させる。フランスの田舎の農家が代々営んできた昔ながらの日常がここには今も息づいている。

 

パン工房では粉の鮮度と自然のエネルギーにこだわり、自ら育てた麦(仕入れたBIOの玄麦も)を石臼で挽き、ドーム型の大きな薪窯でパンを焼く。薪窯は、焼き床で「ファゴ」と呼ばれる枝の束を直に燃やす古典的なスタイル。熱源には剪定で得られる枝を使い、工房の動力は風力と太陽光のエネルギーで賄う。出来上がったパンは、香りがよく、栄養価も高い。この素朴で美味しい日々のパンは、信也さんを魅了し「フランス人にとってパンとは何かを肌で感じ、暮らしの中のパンを知りたい」という想いに突き動かされ、信也さんのパン修行の旅が始まった。

信也さんは、この後3年間でフランス語圏各地の15軒の農家を渡り歩く。初めは、受け入れ農家連盟のガイド本「アキュール・ペイザン」を頼りに農家を探し、そこで出会った人々やご縁に導かれるように各地を旅しながらパンを焼く日々。信也さんは、無名であっても誰もが知っている「あの人のパン」を求めて、村一番のパン焼き名人を訪ね歩いたそう。

この記録ノート達が信也さんにとってかけがえのない大切なものであり、各地での経験が今の「稲垣信也」さんをつくっているのですね。信也さんのパンをめぐる旅の続きはまた次回…。

 


※1 ルヴァン種:フランス語で「発酵種」の意。主に小麦粉やライ麦粉に水を加えて作る。野生の酵母菌を乳酸菌などと共に育てたもの。
※2 楽健寺酵母:人参、りんご、山芋、玄米が元種でつくる自家培養発酵種
※3 プラテーロ:2017年に惜しまれつつ、閉店。店名の「プラテーロ」は、スペインの詩人・ヒメロスの詩に出てくる銀色のロバの名前だそう。

※4 バルバリー農園:パリの北西300kmに位置するノルマンディー地方にあるエネ一家の農園。農業はもちろん、長男・セルジュ氏のパン工房、弟・フィリップ氏のレストラン、母であるジェルメンさんの営むオーベルジュもある。近年は、木工加工のアトリエ運営も始めた。